昨日のお昼と「文下の地名の伝承」

こちらのお店にシャッター狙いで行きましたが、
駐車場に入ると同時に暖簾が出ました。

まだ11時少し前ですが、謳っている開店時間よりも早く開店し
て貰えると嬉しいものです。

食堂ですが、メニューは中華そばのみと気合が入っています。
店内に入ると、生醤油で肉を煮た様な、非常に良い醤油の香りが
漂っています。

裏メニューのチャーシューメン(650円)を硬めでオーダーしました。

平ザルですが、きっちりとお湯を切る音が厨房から聞こえてきます。

スープは濃い色をしていますが、塩分濃度が高い訳ではありません。

チャーシューの煮汁を返しに加えると濃い目のスープの色になります。
個人的には、醤油色が濃く見えるが、しょっぱい訳ではないと言う
スープは大好きです。

大量の野菜を長時間煮込んだ様な甘味あるスープです。

チャーシューは、私が生まれて初めて作ったそれの原点を
思い出させる味のものでした。

チャーシューを噛むと、豚肉の旨みが口の中に広がります。

柔らか過ぎて、肉の旨みが感じられないチャーシューと比べると
、個人的には断然、噛み応えのあるモモチャーシューの方が好きです。

麺も特別な個性は感じられませんが、スープに良く合い
つるつるでのど越しは抜群!とても美味しい、そして強い麺ですね。

いやぁ~、スープも熱々で最高でした!どうもご馳走様でした。

しかし、この食堂のある集落名が「文下(ほうだし)」
これには本当に困ったものです。恐らくは、地名の由来が判明できないというのは世界中を探してもそんなに多くはないと分析しますが、
こちらの集落は代表格じゃないでしょうか?(爆)

私も庄内地区の地名の伝説や由来等は、一時期嵌りまして、
今は昔ですが三年程勉強しました。ここだけはまるでお手上げでしたorz

地元の長老などに聞いても、信憑性のある答えは返って来ませんでした。

なにしろ、「文を下す」が語源であるとの事でした。 

戦国時代に余目の武将が尾浦(大山)武藤義氏に、花見に招待されて、
帰り道の途中で、家来が次々に倒れ、毒を入れられたのでは?の
疑惑の経緯次第を文に書いて、赤川に流したという説。

でもね。なぜ赤川に流さなければいけなかったの?と言う事です。

そして、肝心なのは「文下」で「ホウダシ」呼称なのだから、
それをどう解くの?って事です(苦笑)

さて、信憑性は極薄ですが、当時私が解いた全く別の説をご紹介
したいと思います。1000人が読んで5人が笑ってくれれば幸いです(笑)

歴史に興味の無い方は、ここで終わりです(爆)
尚、説中文には、(笑)(爆)(核爆)は省略しています(核爆)

大昔、ここの集落に「トシマサ」なる箪笥職人がいたそうです。
集落付近のケヤキを次から次へと切り倒して、箪笥を作り続けたと言います。
ある日、トシマサは村の最北の川岸に行き、対岸の横山集落の方を見ていました。
そこに、女性が近づいて来ました。

彼女の名前は、安倍宗任(あべのむねとう)の子孫である、「おみき」なる女性でした。
おみきは遠目ではありましたが、トシマサに一目惚れしたと言います。
おみきは、明日も同じ時間に来て欲しいと伝えました。
翌日も何も会話することの無い二人でしたが、おみきから翌日の朝に
もう一度だけ来て欲しいとトシマサに伝えたそうです。
三回目の再会には、おみきがトシマサに恋文を書いて対岸まで持参しようとしたそうです。
しかし、恋文を渡そうと、渡し舟に乗りましたが、誤って途中で恋文を
川に流してしまったそうです。
そこに、上流から米を積んだ舟が通り掛かりました。
おみきは「どうか拾って下さい!」と叫びました。
そのままでは追い付かないと思った船頭は、帆を出して
推進力を上げて、ミキの落とした恋文を拾ったと言います。
恋文の内容は「私はあなたの事を想っています…」云々書いてあったそうです。

まとめてみると、川に恋文を下してしまい、それを拾うために帆を出した場所と言う事で「帆出し」。
帆出しが訛り「ほうだし」に変化して適当な字(文下)を宛がい集落名とした。

蛇足になるが、トシマサは最後に残った村で一番大きいケヤキも切り倒して
箪笥を作ろうとしました。しかし、大木には神が宿ると信じ続けて来た
村人に反対されて、切り倒す事を断念しました。
これが、後に国指定の天然記念物「文下の大ケヤキ」になるのです。

トシマサの子孫は多数いましたが、暴れ川「赤川」の氾濫に家を失い、
備中街道を西に進んだ尾浦(大山)に移り箪笥職人を引き継ぐ者、製材業をする者、
自ら作るよりも他人に作らせて売った方が得と考え、家具商に転じる者、
更には、頭の良い家系故、医師になる者もいたと言います。

トシマサに恋文を送った「おみき」に付いては、子孫にも恵まれず天涯孤独で不明であったと言います。

以上が私の解いた「文下」の説ですが、本当にこちらの地名の由来がお手上げなのです。誰か分かる方がおりましたら、
是非とも教えていただきたいものです。