定休日のお昼等

暫く振りの更新です。ブログさぼって?とか止めたの?って言わんで下さいよ!(爆)

シーズン入り19期前の事ですが、木曜日、マタリキ店に10時30分、シャッター長でした!

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券売機の超番人スタッフ、藤谷氏であります(愛が生れた日笑)
玉簾ウオーターフォールが存在する地域の出身。

勤めた当初は、私のことを全く相手にしてくれませんでしたが、
ここ最近は非常に愛想が良くなりました(不思議爆)

仕事もできる優秀なスタッフです。私のところのスーパースタッフ、桜田氏と五分五分かも(天使のくちびる爆)

油抜き、硬め、少し濃い口でオーダー、メンマTの食券も購入。

スープは?
かなりの熱め!ギリギリの攻めをしていると分析します。

魚が強く出ている感じも無く、鶏が強く出ている感じも無く、
バランスがとても良いです。鶏か豚か魚か判らないけど、旨いみたいな感じです!(絶妙笑)

そして、調子に乗るのであまり褒めたくは無いですが、麺が実に美味しく素晴しいといつも感じています。

正直、製麺は2,3度教えたか?(爆)マジでそのレベルですよ!

忙しくて、教えている暇が無かったと言うのが正直なところ(爆)

マタリキも製麺を観るどころか、スープの仕込み等の仕事が多忙で
観れなかった(盗めなかった)と言うのも正直なところです(笑)

通年営業するマタリキだから、冬と夏では加水率が4%~5%も違って来る場合があるから注意とだけアドバイスした程度。

そしたら、いつからか分かりませんが、冬場は最高50%で教えた加水が一気に5%も落とし製麺をするようになったそうです(核爆)

同じ冬場でも45%に落としたと言う事は、夏場は更に加水を落としていると分析します。

1分程で仕留めさせようと教えた訳ですが、かなりオーバーボイルしている様です。

まあ、これだけ美味しい麺になるのですから最高です!

回転率だって、全然悪くは無い訳ですから無理する事などありません。

完全に独りで製麺している訳ですから、それで良いと思います。

やり易いのが一番と言うのも否定できませんよ。
私のところはやり難いどころの定ではありませんorz

独りでは絶対に作れない麺です。「おかん」とサンのどちらかがいればなんとかできますが、ベストは三人いないと全ての段階でスムーズではありません。

詳細説明は面倒なので割愛します。それこそが真のラーメン道(面倒だけに…(爆)

そんな事で、既出ですが19期目がスタートしましたが、定休日のお昼が連続未食ですorz

先週(第二週)の15日は、伯母の告別式に参列した為です。

伯母は親父の姉。ここをいつもガン見している方には説明不要ではありますが、天下の「まるい食品」創業者の『内儀』であります。

現在は創業者のセカンドドーター『久美』氏が代表取締役で会社経営しています。

因みに、伯父と久美氏の親子関係は良好でありまして、大●家具とは違います(爆)あそこは久美子氏だったか?

創業者(伯父)と伯母が『伊藤こんにゃく店』と言う名で、お店を開業しました。最初は城下町駅前で産声を上げたと言います。

上手に固まらず、泣く泣く毎日の様にレッドリバーまで捨てに行ったそうですorz

徐々に軌道に乗り掛け、『伊藤商店』として高畑(現山王町)に移転したのが昭和35年。

そして、会社組織になったのが、私の誕生した昭和40年。

奇しくも「琴平荘」の産声も同年に上げております。大おかん方の祖母が「簡易宿泊所」としての船出でした。

そんな事ですが、同年に天下の「まるい食品株式会社」になる第一歩を踏み出した訳であります。

最初は「ろくでなしこんにゃく」と酷い事を言われたそうです。

意地と根性、そして、努力でどんどん成長して行きました。

その天下取りの第一歩が道形(現宝田三丁目)に移転して工場を大きくした事です。
昭和48年の事でした。

私がエレメンタリーの2年生か?或いは3年生の時に、伯父に言われました。
「あづし、おじちゃん、こごさ鶴岡一の豆腐屋作るぞ!」

そして、マジで元のこんにゃく工場で豆腐屋をする事になるのでした。
私は小学4年生の秋の事でした(驚;)

昭和50年になりますが、もう一つの会社「鶴岡豆腐」を立ち上げます。

まあ、成長経済時ですから伸びて行く普通の話に聞こえますが違うのです!

その当時の、こんにゃく店の得意先は、何と「豆腐屋」なのです。

豆腐店にコンニャクを卸し売って貰う。城下町&港町管内などの在の商店にも卸し超お得意先ではありましたが、豆腐店でもコンニャクが馬鹿売れしていました。

後は香具師への卸しも半端では無かった様ですね!

ドル箱的には花見、或いは天神祭りでの城下町パークでの香具師が売るコンニャクの量は、想像を遥かに超えていたそうです!配達担当でも無い「大おかん」が、工場から城下町パークまで、一日に何度往復して配達した事か!?

そんな訳ではありますが、豆腐店を全て敵に回しての天下取りに出る訳です。
製造が全く追い付かずに、昭和52年の暮れに、同じく道形に新築移転させます。

豆腐店を開業する時には、親父も「大おかん」も辞め、
祖母創業の琴平荘を継ぎ会社組織にしたのでした。

写真の説明をしますと、左から親父、伯父、伯母、久美(現社長)、大おかん、豊田さんです。伯母と久美社長の後ろが菅原さん。

前列右が阿部さん、センターで面のでかいガキが小生です(爆)

抱っこしてくれている人が「梅子さん」と言います。
健在で葬儀の前後でもお話できて、懐かしく思いました。

この8人の軍団がどれだけ働き稼いだ事か?

因みに、「大おかん」は基本給よりも残業の方が多かった(仰天爆)

出勤は午前2時。恐らく、一番売れていた頃の御法川もんた氏が平日、朝ズバの司会をしていた時も、3時起きと言われています。

ザキヤマのパソ配達だって、2時半グライダー(憶測爆)

朝一番早いのはパン屋のおじさんではありません!(爆)

2時前に起きるって、釣りに行く人とか泥棒くらいしかいないでしょ?(核爆)

私の幼い頃の記憶のあるところでは、自宅で親父と「大おかん」を見るのは、元日だけでした(マジ)

「大おかん」は毎日2時出勤、親父は5時出勤、帰りは何時だったのでしょうかね?記憶のある幼稚園年長時~小学2、3年生頃は、8時くらいまでは起きていたと思われます。一度も起きている内に帰って来た事がありませんでした。

帰宅は9時頃だったと分析します。

「大おかん」と会えるのは、こんにゃく工場でのみ、親父と会えるのは、
日曜日に配達のトラックの助手席に乗って行く時だけでした。

そんな事ですが、「大おかん」も伯母も寝る暇も惜しんで働きました。
定休日は「元日」だけです!
みどり食堂の女将だって驚く程稼いだと思いますよ(爆)

みどり食堂の女将は、巷では「いつ寝ているのか?」と噂される程と言います。

本人は、生甲斐は仕事、趣味も仕事と言うのですから恐れ多い方だと思います。

そんな事ではありますが、その週の日曜日に息を引き取り、木曜日の葬儀。

木曜日以外だったら、伯母の葬儀に参列する事はありませんでした。

いくら親族の誰かが週末をむかえたと言えども、お店を休んで葬儀に行く訳にはいきません。

これは、伯父&伯母の教えでもあるのです。

「本当に困った時は誰も助けてくれねて!」これは伯母本人から言われた言葉です。語尾が「て」です。普通に地元呼称ならば「ぞ」になるのですが、
間違い無く「助けてくれねて!」と言いました。

ハイスクール時代までは越後在住、卒業後、城下町管内に引っ越しして来て、
19歳で伯父と出逢いました。そんな詳細はどうでも良い事ですが、越後弁の一部なのか?

まあ、それもどうでも良い事ですな(爆)

とにかく、商売の事では、いつも説教ばかりでしたorz

いやぁ~、孫や愛犬には優しい伯母でしたが、弟の親父と私には厳しくきつい人でした(爆)逆に「大おかん」には凄く優しく接してくれましたよ。

伯母が親父に説教し、親父が同じ事で私に説教する。

言っている事は確か!お金に困って誰か助けてくれたら、倒産する会社も自己破産もする人もいなくなると言う事ですからね!

商売の鬼になれと言う伯母の教えでしたが、やはり、甥の私に見送って欲しかったのでしょう。葬儀が木曜日で本当に良かったです。

伯母も喜んでくれたと思います。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏