「雅○君とペッチ」時々脱線、ところにより脱線(爆)

ここにいつもコメントくれますkuri氏のコメントで、
石○雅○君が、もっと懐かしい話をリクエストしているとの事でしたので、
石○雅○君関連の数ある中の、一番懐かしい話をアップしたいと思います。

雅○君との思い出は、「ペッチ」です。これも既出の「バ●ペ」と同じで
庄内地方だけに通用する呼称だと思います(爆)

普通は「メンコ」呼称が一般的ですが、こちらも一文字違ったり、
多少キーボードの位置がずれて打つと、ご入力となり大変な
意味に変わってしまうので、以後からも「ペッチ」呼称
させていただきます(核爆)

そんな事で、一部の人しか分からない話ですので「ペッチ」
に興味の無い方、或いは、私と同年の城北小学校、鶴の徽章中学校
以外の方は、非常につまらない話なのでスルーして下され(笑)

さて、あの当時のペッチの画像があるのか探して見ましたが、
マイアルバムには当然ながら皆無orz

そんな事で、心当たりあるこちらのスクールにお邪魔して来ました(笑)

小学、中学時代は、皆私の事を悪い奴だと思っていたでしょうが、
友達の為にここまでする私は、実は善い人だったのです(爆)

セカンドドーターが卒業してから、既に6年ですから、見覚えのある先生も
皆無だろうと、恐る恐る、職員室に向かいました。

入室する前に、たまたま若い美人教師が職員室から出て来ました(汗;)
一瞬、「不審者かな?」みたいな顔つきになりましたので、
慌てて、「突然お邪魔しましたが、私、地元三瀬の掛神と申します」
と丁重にご挨拶申し上げました。

すると、「はい、どうも!掛神さんと言うと琴平荘さんですね?」と
私の事をなぜか知っていました(驚;)
職員室に案内されて、お茶をご馳走になり、教頭先生から
応対していただきました。

「かなり以前の話になりますが、寄付させてもらったペッチ
はありますかね?」と打診すると、職員室に案内してくれた美人教師が
「確か有る筈です!」と、ほんの数分で探して来てくれました(驚;)

2000枚以上は寄付した筈ですが、500枚~600枚程度になっていました。
それでも、これだけ残っていたのは、本当に嬉しい限りです。

懐かしいペッチです。

これはあまり、記憶にありませんが、年上から獲ったものでしょう(笑)
ペッチには、「ホンペ」と「ウソッペ」があり、ホンペは、獲ったペッチは相手には返さない。ウソッペは、全て返すというルールです。

鶴岡での私の時代は、「落としっぺ」と言って、台上から相手のペッチを落とせば勝ちで、貰えるルールです。

両方のペッチが落ちても自爆しても「ダラ」と言って、
テーブルの隅に積み上げて行くルールで行なわれました。
因みに、ダラとは「糞」の意味ではないと思います(爆)

城北小学校の冬の遊びとして、学校内でやってもOKでした。
自慢ですが、相手が年上だろうが、年下だろうが無敵でした(爆)
因みに、将棋も冬の遊びでOKでしたが、無敵でした。
自慢ですが、相手が年上だろうが、先生だろうが負けませんでした(核爆)

中学に入り、陽光小学校から来た「小坂外務大臣」と言う奴が将棋教室に入り、
腕を上げて来て、私の連勝がストップして、将棋勝負には執念が薄れ、
断念した経緯がありますorz

さて、ペッチでは、雅○君は一番の強敵でした。

雅○君とは「双璧」です(笑)

あとは、レベルが少し落ちて、カマと後勇が東西の大関と言ったところでしょうか(笑)

それ以外の人は、申し訳ない話ですがペッチに関しては論外です(爆)

全く勝負になりませんでした。

四年生の時に、とても強がる奴がいました。
名前は出しませんが、私や雅○君よりもペッチを多く持っていると言うし、
全てホンペで取ったもので購入したものは一枚も無いと豪語するのでした。

聞き捨てならなくて、「見せろ!」と迫りましたが、
縁の下の秘密基地に隠してあると言います(核爆)

ある日、その奴の家に抜き打ちで行って確かめようとしました。
鍵を無くして、その日は開けられないと言う答弁でしたorz

多くのペッチは確認できませんでしたが、勝負する事になったのでした。

ジャンケンで、私の勝ちだったので先攻になり、ノーミスで100枚程
獲ったところで、彼は泣き出しました(核爆)
3000枚以上取ったものなら、100枚程度取られたくらいでは、
泣くという事にはならないと思いますが(苦笑)

ペッチの勝負に関しては情け容赦無しです。
その時代、誰でも暗黙の承知でした。

恐らくは、家の人にばれたのでしょう。
それから数日後、学校ではホンペは禁止されましたorz

ダンボールを切り抜いて、ペッチ代わりを作ってくる奴も
多くいましたが、私は作りませんでしたし、ウソッペも気合が
全く入らないのでしませんでした。

「香川みかん」なんてペッチ、ださいですよ(爆)

皆は、冬の遊びとしてでしたが、私と雅○君は真剣勝負です。
ダラが大量に重なると、俄然燃えて来て、あたかもオリンピックに
出場する投てき選手の様に、おたけびを上げながら台に
叩きつけたものです(爆)

ペッチは上手い下手ではありません。全て気合なのです。
最高の気合が掛かったダラ取り勝負では、私は数メートル助走を付けて
台に叩き付けたものです(核爆)

そして、冬のみならず、通年訓練をしていました。
エアコンって何?扇風機も茶の間にしかない時代の真夏でも、
サウナみたいな二階で訓練をしていました。

何十種類のパターンを訓練し、「ダラ」取りの練習もしました。

5枚くらいから、50枚程積み上げた物を何度も何度も繰り返しました(爆)
寝る時も、布団でイメージトレーニングをしていました(爆)

汗と涙の努力があったからこそ、不滅の不敗神話?も作れたのです。
やはり、私と雅○君は凄いのです(核爆)

やはり、努力は裏切りません。私の経験上、小学校6年の時、
同じクラスに田●尚子さんと言う女の子がいました。

5,6年生の二年間で、何百回逆上がりを失敗したものか?
それでも皆で励まし応援しました。本人も茂男先生も絶対に諦めると事は無かったのです。

何度失敗しても誰も笑う者も馬鹿にする者もいませんでした。

まあ、途中一人だけいましたが、茂男先生から黒板用のでかいコンパスで
お尻を叩かれ、暫らく立ち上がれない状態に何度もなるものでした(爆)

ビッグリバー君です(爆)でも、尚子さんが成功した時は、誰よりも大きな
拍手をしていたと思います。

田●尚子さんは、中学でも一緒でしたが、何でも精一杯頑張る人でした。
マラソン大会では、いつもしんがり争いをしながら走っていましたが、
彼女なりに頑張っていたのです。しんがり争いをしていたのは、
アベノミキティーさんとか二班のマーチャンとかがいた筈です。

いくら尚子と命名してもマラソンが早くなると言う訳
ではなかったみたいです(爆)

しかし、全力で向かう彼女等は、正直、偉いなと見ていたものです。

走れるくせに真面目に走らないで、寺田でショートカットしたり、
民家の水道を無断で使用して水を飲んだりする馬鹿もいたのです(核自爆)

そんな彼女等の姿をマラソン大会の度に見て、3年生最後のマラソン大会だけは「やらなければ!」と真面目に走りました。

二週間前から、夜に秘密の練習をしましたが、結果5位でしたorz

伸、塩野、篤、吉住。この4人の順位は、いつも変わる事はありませんでした。
5位の席をいつも別の生徒が争っていた訳ですから、まずまずの結果と喜んでも良いのではないでしょうか(笑)

その時の5位は、彼女等が取らせてくれた「5位入賞」だと思います。

まあ、ここを見ている筈もないとは思いますが、御礼を言いたいと
思います。「君達のお陰だ!有難う!」(爆)

ゴール後、同級生の女子の祝福が凄かったです。
同じクラスの篤が3位なのに、5位の私を喜んでくれました(笑)
長距離は余程、走れない奴だと思っていたのもあるでしょう(爆)

恵子さん(秋)、恵子さん(大)利津子さん、恵美さん、
明美さん(下記商会ドーターさん)慶さん(高専太郎教授の奥様)等が
「凄いのぉ~」と喜んでくれました。

南葉商会に差し掛かる時に、担任のよしみつ先生がラッタッタ(普段の通勤はジムニー)に、やや、がに股乗りして「カッケ、カッケェ~!」と凄まじい
形相で雄叫びを上げていました。

6位~7位争いをして走っていても、それまでの3年間、
定位置の180~190位くらいを走っていても、
よしみつ先生は同じでした(爆)

怒っているのか?応援しているのか?全く分かりませんでした(爆)
南葉商会を左折して、渡部商店辺りが勝負どころ。

渡部のおばちゃんも店の前で見ていました。
「あんまん」を買いたいのを我慢してラストスパートして、
二人抜いて5位になりました。

多分、抜かれたのは、ミッチャとタゴだった筈です(爆)

普段の給食は、人の2倍~3倍の量を食べる。
そして、牛乳は、毎日2~3本くらいは飲んでいました。
全校生徒1200人近いマンモス校ですから、昼休みに、
ある場所に行けば、牛乳などいくらでも呑めました(爆)

運の良い時は、20本~30本も余る時もありました。
いくらなんでも、10本くらいが限界でした。
まあ、全部一気呑みでしたが、、、、(爆)

しかし、その日はあまりの疲労で、給食が人並みしか食べられませんでした。
牛乳も、大会後に水を飲み過ぎて自分の分の一本しか呑めませんでしたorz

しかし、5時間目が終ると、腹減りコプターになりました(爆)

ガマに、渡部商店から「あんまん」を買って来てくれと
頼みました。ガマは別にパシリではありませんでしたよ。

相手の分も買ってあげるのは、パシリとは言いません。

パシリは、相手に1円玉を見せて、100円に見えるだろうと
脅し、100円の物を買わせる事です(爆)

この後に他の奴も同じ事をしました。これが先生にばれて大目玉ですorz

当時の教頭に金内幸●郎という先生がいました。
ばれた翌月曜日の朝礼の挨拶の中で、「休み時間に肉まんじゅうを食っている馬鹿者がいる!」と激怒していました。

私は心の中で、「肉まんじゃなく、あんまんを食べたのになぁ~」と思っていました(核爆)

体育館から、教室に戻る時に、4組のカマが言いました。

「どうしろと言うんだ?こうしろう!」(爆)
鶴の徽章学校の駄洒落王は、自他共に認める「カマ」でしょう(笑)

そんな事でしたが、この金内教頭は、苦手な先生でした。
校舎内のガラスを割ると、教頭先生に謝罪に行かなければいけないのですが、
一枚目を割った時は、「ボールがちょっと…」と発声したとたん、
「ちょっとじゃガラスは割れない!」と剣幕が凄いorz

仕方ないので、二枚目を割った時は、「ボールが強く当り…」と言うと、
「何でガラスにボールを強く当てるんだ!」と同じく剣幕。

どうしても怒られるので、三枚目は正々堂々「すみません。ガラスを割ってしまいました」と言うと、「どうして割ったんだ?」と理由を追求してきます。

「ちょっと」とも「強くと」も言えないのが苦しかったです。
「たまたまボール当ってしまい…」と言うと、「お前、これまで何枚割った?
たまたまなんかじゃない!」とそれまで以上に激怒していましたorz

小学校の時はいくら割っても、用務員さんが片付けてくれて、
後から先生に怒られるだけでしたが、中学校は、自分である程度片付けて、
更に怒られてから弁償だったのですorz

というか、これまで最大の脱線か?(核爆)

さて、続きです。この様な大型のペッチは「台風」と呼称していました。
誰もハリケーンとかサイクロンとか呼ぶ者はいませんでした(爆)

一応、証拠ですが、全て私のペッチです(笑)
三瀬小の教頭先生の前で書いたのではありません(爆)

三瀬小学校の先生全員が承認です(笑)
校長先生は校長室から出て来て、「社長のブログ、食べ歩きに参考にさせて
貰っています」と言います(汗;)
他の若い美人教師も「ブログ見ていますよ」(汗;)

今後は、下ネタネギとかの話は自重しなければいけないでしょうし、
滅多な事は書かれないですなぁ~(爆)

さて、これだけの代物です。名前(落書き)など書かずに、
もっと新しい状態で保管しておけば、かなりの金儲けになったのでは?
と思う人は、商売向きではありませんよ(爆)

他人から取った数千枚のペッチに自分の名前を書いたのですよ(笑)
そんな事しないで、その分漢字練習をしていたら、kuriと同じ
鶴岡高校に入れたかもしれません(核爆)

それでは、そろそろ本題に入ろうかと思います(核爆)

雅○君とのペッチ関連の一番の思い出は、ペッチ遠征です。
他の学区で、ペッチを多く持っている奴の情報を入手して、
コンビで勝負をしに行きました。

大体が、2対2で他の学区の奴等と勝負をします。
雅○君は、ポケットに入る程の小さいペッチを3枚くらいしか
持参して行きませんでした。

私とのタッグと言う事もあり、絶対的な自信だったのでしょう(笑)
はっきり言って「無敵」の最強タッグでした。

どこに行っても、相手のペッチを全部獲って来ました。
獲られた奴は「破産」と言いました。

ただ、既出の「台風」は出さないものでしたね。
その時は、台風と中形のペッチ10枚~20枚くらいとトレードしないか?
と話を持ちかけます。

相手が必ず乗って来ます。再度勝負をします。
我々は小形のペッチしか使用しないとのハンデ戦を持ちかける訳です。

雅○君は、小形のペッチでも中形のペッチを落とす程の達人でした。
調子の良い時は、おたけびを上げて小形のペッチで台風を
落とす時もありました(爆)

そんな事で、行くところどこでも破産をさせて帰って来て、
山分けする訳です。

三枚しか持参しない雅○君は、帰りには大きな紙袋いっぱいのペッチをチャリンコのかごに付けて帰って行くものでした。

 
そんなある日、二人でどれくらいペッチがあるのだろう?と言う事に
なり、勘定をする事になりました。

私の家の二階で半日掛かり、数えました。3000枚強のペッチでした(爆)
帰り際に、雅○君の様子がどうもおかしい?と察し、身体検査をしました(爆)

ポケットの中に、3枚の小形のペッチをしのばせていました(爆)

最強のタッグ、親友の雅○君の悪ふざけだと腹が立つことはありませんでした。

雅○君以外が犯行に及んだら、血の海だったでしょう(爆)

その前に、近くに住むヌンチャク兄弟がいまして、取られたペッチを
返せと主張して来ました。

弟が私と同じ歳でした。返さないと「鼻血ブー」してやると言います(爆)
「鼻血ブー」が彼等兄弟の口癖でした(爆)その時は、高木ブーさんの事も
知りませんでしたので、洒落も言えない状態でした(爆)

私も逆切れして、鼻血ブーしてやりました(爆)

しかし、即座に兄が出て来て、ヌンチャク攻撃を受けた
私が鼻血ブーでしたorz

親父からいつも言われていた事は、喧嘩で負けたら夕飯抜き、それどころか、
家に入れないと言われていました。

近くのこんにゃく屋で配達をしていた親父が、こんにゃくをトラックに
積みながら、「耳を齧って放すな!耳を引きちぎって持って来て見せろ!」と、
小学校二年生の私に凄みました(爆)

うろたえていると、「後からそっと行ってバットで頭を殴って来い!」
猛剣幕で更に凄みます(爆)

泣きながら、プラスチックのバットを持ち、ヌンチャク兄弟の家へ向かいました(核爆)

途中、出会ったのが、現齋藤学園の理事長、鶴東ハイスクールの
校長先生の哲(アキラ)君です。当時から哲君と呼称しているので、
そのまま呼称させて貰い書きます(笑)

「アツシ君、どうした?」と優しい言葉を掛けてくれましたので、
べそ泣き程度だったのですが、号泣してしまいました。

事情を話すと、哲君は「俺がやっつけてやる」と言って、
ヌンチャク兄弟の家に行き、近くの空き地に呼び出しました。
哲君、この時まだ12歳の6年生です。

「アツシ君をいじめてこの野郎!」と連打のパンチに、ときたま
キックも出ていました。

ヌンチャク兄弟の兄が、泣き叫びました。
最後のとどめは、飛び膝蹴りでした。
まさに鶴岡の少年沢村忠です(爆)
あの強暴なヌンチャク兄が、あんな姿になるとは?(驚;)
びっくりしたのと、哲君が月光仮面に見えました(爆)

感動したというか、平成時代に入ってからだと、
ドラクエⅤでエスタークを倒した時の気分に近いものだったと思います(爆)

今思えば、沢村忠とブルースリーの決闘を私は見ていたのです(爆)

このイメージで喧嘩をすれば良いのか?と小学二年生ながら、
大いに勉強させられた一瞬でもありました(爆)

そんな事で、雅○君との懐かしい話を中心に、
小学二年生~中学三年生までの懐かしい話の一部
をアップしましたが、記事の文も概ねその年代のレベルの物に
設定して書きました(爆)

懐かしい話に近いように、昨日、中学時代の同級生がラーメンを食べ
に来てくれました。サッカー部主将の「重」です。

因みに、競馬場の馬場コンディションではありません(爆)

折角ですから、中学校のサッカー部ネタをとも思いましたが、
昨日、約60分、本日も約60分の、約120分をこの
記事に費やしています(核爆)

今回のところはこの辺で糸偏に冬とさせていただきます。
もう暫らく、記事を書く気にはなれません(爆)