S瀬K比神社

S瀬のK比神社は霊亀2年(716年)9月に越前の国敦賀の気比神宮より勧請されたと          伝えられているのは、あまりにも有名な話であります。
社記の2行目に謳われています。
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しかし、この霊亀2年説には無理があり、あくまでも伝承という捉え方が妥当のような気がします。
くどくなるといけませんので、資料で調べ纏めたものを簡潔に書きたいと思いますが、煩雑に感じたら申し訳ないです。
恐らく、越前国からの最初の大量移民に結びつけたのでしょうが、S瀬やその近くへという記録がないのと、最初から自分達の権現様を持ってくること自体考えられません。
諸説あるところですが、一番可能性が高いところでは延元2年(1337年)説です。
石塚氏の祖は中臣氏で、南北朝動乱で南朝方の中臣は北朝方の高師泰(こうのもろやす)と戦い破れて、(河端三氏、石塚氏、石倉氏、平松氏、島氏、宮内氏)の8氏に離散しました。
この時、石塚氏の主流が北陸路を北へと向かい三瀬(出羽国田川郡三瀬)に落居したというものであります。
因みに、その19年後の藤島城落城の時、石塚宗信氏(むねのぶ)が南朝方に加わり活躍しましたが、討ち死しています。
ただ、落居してすぐに気比大権現を勧請したかどうかは記録にないので、1337年以降間もなくと考えるのが妥当な気がします。
当時は気比大権現で、慶応4年12月に気比大明神と改称されて、その後、神仏分離令を経て明治3年2月気比神社となりました。
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1月17日の日記、「続…氏姓」の最後のところで「因みにI塚姓のボスは「I塚きよし酒店」と書きました。
ここの主人は次女のミニバスケの監督です。(これも後の日記で既出)名前は「宗一氏(しゅういち)」です。その息子さんも「宗氏(そう)」です。
上記した宗信氏も然りですが、石塚一族には代々「宗」の字が付いています。
これからも永久に石塚姓、「宗」の字に拘り守り続けていって欲しいものだと切に願うところであります。
案の定、支離滅裂的な文で纏まりが付きませんでしたが。悪しからずorz
続く…。