この日は城下町管内「日吉町」、弥生上旬にオープンしたこちらのお店にシャッターしました!
こちらの新店はサンロード日吉商店街にあります。
悲しい事に、シャッター通りと言われても仕方ない商店街にいつのまになってしまっています。
それでも絶好調、飛ぶ鳥を落とす勢いが変わらずの『長南牛肉店さん』があるのも同商店街です(流石)
社長の肉彦先輩の息子さんも頑張っていて、安泰ですね!(長男爆)
あとは、近くのTempleでは『般若寺』さんがありますが、余りにも有名であると言えます。
大昔の町名に「般若寺前」と存在したくらいですから!!!
その般若寺の前の道路を昔は『六軒小路』呼称し、それこそ大昔は『六軒小路』と言う町も存在していました。
まあ、昔と言っても私が物心付き、その後の小学生時代の話です。
高町(山王町西部)で暮していた事は既出の筈です。
目と鼻の先に鶴文堂(かくぶんどう)さんがありますが、そこから、日吉商店街への小道があります。ここを「六軒小路」呼称していました。
鶴文堂さんから商店街への大通りまでです。現在は存在しませんが、カドヤ菓子本店さん(山王町)と松井八百屋さん(日吉町)までが、事ほど左様の小路名であります。
カドヤ菓子店本店さんの建物は存在していますが、松井八百屋さんは既に長南牛肉店さんの駐車場になっています(加藤化粧品店側)
まずは、六軒小路とは山王町と日吉町の境の道路であると言う事を合点していただきたいです。
因みに、「般若寺前」と「六軒小路」が合わさり『日和町』として誕生したのが、明治13年師走の話であります。
その後、昭和40年に「日和町字般若寺前」と「日和町字六軒小路」を含めた、他9つの町が合併して、現在の「日吉町」が誕生しました。
話は戻りますが、六軒小路は小路名から字名になり町名にまでなっています。
そもそも6軒とは?
大昔は、山王小路呼称されていたとも言いますから、6軒の人達で山王日枝神社(おさんのはん)を建てたのでしょうか?(爆)或いは、般若寺を建てたのでしょうか?(核爆)
何れも違いますが、6軒の家中屋敷があったと言います。
その他にも城下町管内には七軒町、十三軒町なるものも存在しました。
分かりやすいのが『家中新町』です。中級クラス以上の侍が暮らせる為に新しく作った町ならば合点でしょ?
この町名も江戸時代から存在した町名です。
そして、武士では無く足軽が住んでいた町が二百人町です。酒井のお殿様(忠勝公)が入部した時にできた町です。
武士を住ませる為に、新しく作った町で『新士町』も存在しました。
十三軒町、二百人町、新士町は、現在の神明町になります。
鶴岡天神祭りの天神様(菅原道真スガワラノミチザネ)を祭った天満宮のあるところで、以前は天神町です。
因みに、七軒町は現在の睦町ですが、睦町、双葉町の昔を講釈する、とてつもない大脱線になるので割愛します(自粛爆)
っうか、既に相当な脱線です(核爆)
さて、10時35分にシャッターしましたが、その1分後にセカンド氏が来て、10時45分にはサード氏も並び始めました。
サード氏との駐車場着は、遠山の僅差でありましたが、車内待機していました。
セカンド氏は、近くのジモティーか!?絶句徒歩みたいでした(爆)
まあ、シャッター長と言うよりも、ここ近年は⑧さんに安牌時間が肝心です。
10時50分には、幟を若き女子スタッフが設置しに出て来ました。
見た目では、自ずと小生には判断が付かないです(当然爆)
高校生と言われれば高校生、しかし、二十歳前後にも見えましたから、大学生であったのか?或いは…。何れにしても愛想も良く好感が持てるスタッフ等でありました(感心)
それにしても、ラーメン店の高校生バイトの時給が、最低賃金よりも100円アップの4桁になっていますね!
いやぁ~、これに驚いたと言うと、そちらの方が驚いたと言われてしまう今日この頃になってしまっていますね(苦笑)
どこのお店もそうなのかもしれませんが、そのくらいじゃないと、応募者が見つからない!人手不足の懸念が付き纏わると言う事になっている気がします。
因みに、私のところでは、前期初日から時給を上げ、今季の初日(10月1日)からも時給を上げ、更には、3月1日からも再度時給を上げています(三段階大汗;)
社員の基本給に関しても1万数千円程度ですが、月給を上げました。
時給を上げてやらないと、スタッフも可哀想と言うのが月並の話かもしれませんが、上げざるを得ないのですよ!
上げないと辞められてしまう懸念があるからです。
この件に付いて語り、愚痴講釈すると、過去最多の脱線の懸念があるので、ここで留めます(中小企業逝ってヨシ!?酷)
ただ私のところなど、それにも満たない零細企業ではありますが石に噛り付いてでも絶対に間引かれない様に残って行く努力をしなければいけないと痛感しているところなのです(肝心)
さて、幟が出た後に間もなく開店。10時55分にならないくらいの前倒し開店(入店)させてくれました(感謝)
いやぁ~、これは本当に嬉しく有難いなと思いましたよ(感心)
メニューですが、初訪のお店ではデフォと決めてはいるのですが、迷いに迷った挙句、ワンタンが気になり「ワンタンメン」にしました(珍)
勿論「あっさり」でオーダー。メンマも付け、麺硬めのオーダーです。
そして、美味しい食べ方と書かれておりました。
目を通してイメージはしていましたが、あっと言う間の着丼(早っ)
私は基本、元宮崎県知事で食べます(そのまんま爆)
さて、ますはスープからです!
温度も非常に熱い設定で好感が持てます(流石)
豚鶏清湯に節系のブレンドと思いますが、私のところで使ってない魚介系の風味を一瞬感じました。
しかし、二口目にはその風味がかき消されたと言う感じで、ほぼ判らず仕舞い(苦笑)
そして、麺は思いの外、太麺でありました!
夢中で食べ、啜ったので正確な分析はできませんでしたが、14番?或いは12番の薄出しなのかなと思います。
とにかく、グルテンの良くでたとても力強い麺である事は間違い無いです。
チャーシューも異なる部位を使用した2種でした(凄)
チャーシューの異なる部位を提供する事がどれだけ大変なのか、普通の人には理解できないかもしれませんが、マジ、結構大変なのですよ(詳細割愛)
ワンタンの具肉も旨味が凝縮されていました。
このタイプのワンタンならば、もう少しオーバーボイルの方が、より好みの食感になるのかな?と思って食べました。
それにしても、拘りの詰まった一杯なのでしょう。KKでFIN。
新店店主の渾身の一杯。どうもご馳走様でした(感謝)
提供も早く、⑧さんに超楽勝。駐車場で時間調整できる余裕がありました。
さて、最初に触れた日吉町ですが、誕生したのが昭和40年の事。7月1日からの実施ですので、私よりも2か月程年下になります(メーデー生れ)
それこそ、私が誕生したのが、こちらのお店(日吉町)の隣町、宝町にあった『桑島医者』さんらしいです!
こちらの店舗脇、↓の小路を進むとすぐに宝町内で、左手にお医者さん(桑島医院)がありました。
流石にその当時の記憶はありません(超核爆)
聞くところによると、親父と大おかんの地元での振り出しは、同宝町のアパートで、九尺二間のまさに六畳ひと間。近くを庄交のバスは通っていたらしいですが、バスは無し(銭湯通い)で、閑所は当然ながら共同だったそうです(爆)
親父が二十歳で大おかんが一九。明日の飯さえ無かった程、貧乏では無かったらしいですが胸突き八丁であった事は間違いありませんね(村田先生爆)
それこそ村田先生の『夫婦春秋』と言う歌、非常に良い歌であります。
暫く経ちましたが、NHKのど自慢《山形県・鶴岡市》で、酒田のラーメン、カワヤナギの熊谷店主が歌い、見事合格されましたよね!(流石)
いやぁ~、痺れましたねぇ~。
私は、歌う前から必ずやって(合格)くれるだろうなと確信していましたよ(笑)
彼是7,8年以上も前でありましょうか?熊谷氏と港町管内の某飲食店で一緒になった事がありました。
私と一緒にいたのはハーフムーンのポンドライスフィールド氏。
そのお店では、マイク離さーず「ポンドライスフィールド氏」の独壇場(爆)
私も酔いが回って来て、そろそろ歌をと思っていたところに、熊谷氏が来店。
その時、最初に歌ったのが、フランク永井さんの「君恋し」でした。
マジ、やばかったです!
本人に勝るとも劣らない程上手いと、聴きそびれてしまった経緯があるのです。
私は、その日は一曲も歌う事なく…糸偏に冬orz
事ほど左様で、間違いなく合格するなと確信して観ていたのでした!
話を少し戻しますと、私は宝町管内で誕生して、気が付いた時には、山王町にいました。
私が生まれる前、山王町に引っ越すまでどうだったのでしょうか?
親父と大おかんは、僅か3年~4年間で500万円を貯めたらしいです。
貯められた要因としては、九尺二間を卒業したかったからでしょう。夢のマイホームを購入したい為に働いたのです。
それこそ、一番の理由になりますが休みは元日のたった一日、しかも大おかんは、一年通して基本給よりも残業の方が多かったと言います(仰天;)
稼いでも金を使う時間が無かったから溜まったのです(当然爆)
出勤は午前2時前です。帰宅が午後9時前後。親父にしても朝は4時出勤、帰りは同じく21時くらいだったそうです。
夢のマイホームと言えども、土地も含めた中古住宅で500万円。いくら昭和40年前半でも低価格でしょう。
昭和39年の新潟地震の影響なのか!?
家自体が、かたがっていて二階の部屋にボールを置くと、ゆっくりでしたが転がって行きましたからね(爆)
そんな家でも九尺二間を卒業できて、親父は嬉しかったと昔話を語っているものでした。
そんな事ではありますが、エレメンタリースクールに入るまでは、自宅では親父と大おかんを元日以外は見た事が無いと言う事実(マジ)
まあ、二軒隣に、勤め先がありましたので、そこでは見た事(会いに行く)もありましたし、親父の配達の車に乗って付いて行った記憶が薄っすらとあります(伊藤蒟蒻店)
それこそ、幼稚園時代の記憶はほとんど無いのが正直なところです。
確かな記憶は、幼稚園の保母さんから怒られた事。これは鮮明に覚えているのです。
年中か?或いは年長だったかもしれませんが、同年の園児と玩具の奪い合いになったのが原因。
奪われ、私は短気を起こし積み木を彼の頭に投げ付けたものか?或いは、積み木で頭を叩いたのかもしれません。
そこの記憶は定かではありませんが、当時の担任「小泉先生」が激怒した事です。
「あっ~ぷ!」と私の両手を痛いくらいに掴み、激しく、恐ろしい表情をしていました。
いつも優しい先生が、そんなに豹変とはショックでした(自業自得掛自爆)
即座に、同年の園児は医者に連れて行かれましたが、その日を最後に再び姿を見せる事は無く、新形幼稚園へと転園したのでした(大汗;&猛省)
因みに、そこは泉町にあった「のぞみ幼稚園」です。園長は「せつこ氏」と言う方で上郷管内『竹の浦集落』の方みたいでした。
既に20年以上も経ちましたが、上郷敬老会で私のところの旅館を利用していただき、再会した経緯があります(驚;)私の事を覚えていたのですから、余程前代未聞の迷惑を掛けたかけてしまったのかもしれません(猛省)
さて、その彼が転園した後も城北小学校、鶴の徽章中学校で一緒でしたが、同じクラスになった事も無く、マンモス校と言う事もあり会話をした記憶もありません。
それでも再会してしまうものなのですね。何と親父があの世に行ってしまった時です。
火葬の為、遺体を斎場まで運ぶ霊柩車の運転手で現れたのが彼でした(仰天;)
自宅の大海町から伊勢原町の斎場までの10分程度の車内で、聊かではありましたが会話をしながら進みました。
そんな中で、彼が「しかし、頑張ってるのぉ~」と声を掛けてくれました(驚;)
思い掛けない言葉に、万感胸に迫る思いがありましたよ。
いやぁ~、日吉町でここまで脱線してしまうとは私自身も思っていませんでした(核掛自爆)
まあ、ここまで読んでくれた人は、ほんの数人程度は承知しています(核爆)
シャッター通りになってしまったサンロード日吉商店街に新たな店舗、しかもラーメン店が入居した事もあり、昔の賑わいを少しでも取り戻せたら最高だなと思った次第、本来はそれを一番に言いたかったのですけど…(爆)
そして、こちらのお店の様に、これから新店ができるのならば、⑧さん近くにギボンヌですね(古爆)
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