琴平岩(大筒場)で、実際に大砲が発砲されたかされなかったか興味もある方もおられるでしょうが、発砲はしていないようですね。
嘉永元年の4月16日に飛島沖に異国船が現れたのに警戒して、4月30日に対応しての設置となった訳ですが、その当時の大砲はただの鉛の弾であって爆発する事の無い、避けられれば全く意味の無い威力の無い弾であったのだと言います。
御宮を右端に移動して大砲を設置したなごりがわかりますね。
異国船に装置してある大砲は、日本の何倍もの威力のある大砲であったことを此方側も承知していたので、此方からは決して仕掛ける事はなかったと言います。
1853年には余りにも有名なペリー来航、黒船も浦賀に来ています。
余談ではありますが、こんな逸話も…。
「黒船の中で、江戸城の老中、その他がビールを飲まされたとか。
初めて見るビールは、正に小便壷のそのものに見えたとか…」
それからかなりの年月が経ち、戊辰戦争では、洋式砲術家の中村三内が「三瀬」「五十川」「浜温海」「大岩川」「鼠ヶ関」の5箇所に砲台を築いたという記録もあるようです。
正に大筒場ですね。