先週のお昼

この日は製麺機の切れ刃を診に「マタリキ」店にお邪魔して来ました。

1月は大雪で苦戦したと言います。まあ、どこのお店もそうだったと思います。

かなり融けてもこの状態です(大汗;)

この冬、三川橋も菅原橋も一度も越えていませんでしたが、レッドリバーの東西でもこれだけの降雪、
積雪の差があるものなのですね(苦笑)

10時45分にシャッターしました。
凄い雪です。この除雪の跡。ちょっとした重機でも30分、5000円くらいの相場と聞きますから、
一度除雪が入れば1万円は飛ぶと分析します。

今年は、20回以上は出動して貰った事は間違い無いでしょうorz

20万円ですよ(大汗;)まあ、多忙時なら2日分くらいの売り上げか?
20万円の売り上げなら2日~3日あればですが、20万円儲けるのに
どれだけ大変か?

いやぁ~、地獄を見たでしょう。これが商売です。

さて、権利付けをしようとしますが、猫を見つけました。

もう、シャッター長など全く関係ありません。

更に他のお店の製麺機の切れ刃など一ミリも興味無し(爆)
ラーメンも食べなくても良いくらいです(核爆)

昼飯なんか抜きでも猫を構っていた方が楽しいです。

さすがに晩酌の爽と比べると、晩酌の方が楽しいです(爆)

うみゅ~、これは診断すると、完全な生まれた時からの野良では無いと思います。

中々身体に触れさせないと言いますが、「おかん」なら一週間か10日あれば、
触れるくらいにはなれると診ました。

色々な名前を呼んでも返事しません。どうやら夏目漱石の様だ(爆)

オープニングスタッフの松浦氏は「ニャンコ先生」と呼んでいました。

「とってんぱーのにゃんぱらりっ」と言っても無視しています(爆)

マタリキのスープの出来具合を毎日見に来るそうです(核爆)

マタリキの師匠。マタリキは風大左衛門であると言う事らしいです(爆)

しかし、松浦氏は我々よりも一回り以上若い方だと思っていましたが、
いなかっぺ大将を知っていたのですね(笑)

大ちゃん数え歌の替え歌を炸裂してくれば良かったか?(核爆)

まあ、あまりにも下品なのでここでは止めておきますね(爆)

猫に構っている内に、セカンド、サードと次から次へとシャッター車がやって来ます。

しかし、誰も権利付けする人もいません。ごっつあんを遠慮していたものか?
或いは本気でラーメンを食べる気があってシャッターして来たので無いのでは?(爆)

まあ、かなり雨が強く降り出していたのも関係したものか?

私は、雨は全く関係なく猫に構っていました。

髪の毛が溶けたとか、服に穴が開くとかなら傘を差しますが、基本傘は差さない派です。
小学校の時からの悪い癖でもあるかもしれません(爆)

開店5分前に並びます。

すると、セカンド以降がぞろぞろ降りて来ます。

券売機と合性が合わないのは何度も言って来ました。特に後ろに人が並ばれると完全アウトです。
恐ろしいプレッシャーです。1000円札など入れても
一度では絶対に入って行きません(爆)

9割以上戻って来ますよ(核爆)

暖簾を出す前の「マタリキ」に買って貰います(爆)

一番札を松浦氏から貰います。

どこかで似た様な番号札ですぞ!?

どうやら、川井商店の番号札を真似した様だ(爆)

マタリキが修業時代、色々な面で猿真似は駄目だと力説していました。

猿が人間の真似をしても勝てる訳が無いのだからと講釈していました。
どうせやるならチンパンジー真似をしろと力説していました(爆)

この番号札は、どうやらチンパンジー真似した様です(核爆)

オーダー取りに来ないなぁ~と考えていると、私の家の猫と同じ名前(光ちゃん)のスタッフが
「中華そば普通盛りです」と運んで来ました(驚;)

いやぁ~、オーダーもしない内に提供されるなんて?硬めで頼みたかったのにと、
ふと考えると食券がオーダーだったのですよね?(超核掛自爆)

マタリキに買って貰ったのを一瞬忘れていました。余りにも久し振りの正面からの訪店で実際に食べる訳ですからね。

松浦氏or光ちゃんが、わざとオーダーを取りに来ていたら、
再度お金を支払っても不思議ではありませんでしたね(超核爆)

ミッチーさんも来店しておられます。

温泉取材の帰りに寄られたものか?

さて、まずは久しぶりのスープは?

なるほど、、、、予想通りの味になっていました。

優しい味のスープです。開店当時、私が手伝っていた頃よりも
煮返しを抑えています。

その分、豚鶏の風味、そして、魚介系の出汁感が素晴らしく良く伝わります。

マタリキは以前から、じゃっかんですが薄味好みでありましたから!

自分のお店の一番のファンは当たり前ですが自分です。

事ほど左様で自分の好みの味で提供されて当然です。

だから、私のところとも違って当たり前。直王のところと違って当たり前なのです。

まあ、私が開業した時は、万人向けを狙い、スーパーの店長に
売れているカップ麺ベスト3を聞き出しました。

そして、お湯の注ぐ線まできっちり入れて、それを呑んで、その塩分濃度を基準としました。
それが始まりでしたが、何度も試食して行くうちに自分好みに
変わって行くものでした。

そして、チャーシューも全然別の部位に替わっていましたよ!

以前の肩バラ部位は、やはりバラ付きがあって駄目だったものか?(爆)

新しい部位は、二枚乗せではありますが、三枚肉です(爆)

ただ、大盛だと三枚付けと嬉しいサービスですね!

大盛120円増しで、チャーシュー一枚増の短冊の角切りメンマも二個載るそうです。
しかも麺量は350gですから中々のお得感です。

麺もこれまで一番良い出来でした。

まあ、開店当初は夏場で始めましたしね!

そして、私が製麺を本気で教えたのが、たった1日なのです(核爆)

「工業の機械科卒なんだから、俺よりも機械には詳しい筈だ!
自分で工夫して考えれや!」と言って終わりだったですよ!(爆)

開業前は、何回も失敗して、納得行くまでやるしか無いし、知人でも誰でも良いから上げれば良い、
余りにも駄目だったら廃棄しかないと言っていました。

もう、こればかりは教えようがありませんからね。

自分で何度もやってみる事です。私の場合は、今だから言えますが、開業の一年前に製麺機を購入して、
中華麺を打ちました。そして全て、旅館のお客様の胃袋に入れて貰いました(爆)

私のところはそれこそ一般のお客様などはほとんど利用してくれる宿では
無かった為に、老人クラブの団体さんを激安料金で取っていました。

送迎も無料。お膳には酒又は、ジュース一本付き、更には翌日のお昼も
付けてのプランでした。それで一泊7500円~8000円程度で取っていました。

お昼は、大体が「つけ麺」です。

団体の中には当日のお昼も出して欲しいとの要望があると、500円で「肉うどん」等も出しました。
勿論、うどんも打ちましたよ!蕎麦も打ちました。

そうやって、猛練習できたから良かったのです。

全く廃棄する事は無かったです。それこそ、開業してからの方が廃棄した時がありました。
見込んだお客様が来てくれないと、熟成し過ぎて廃棄しましたよ。

そんな麺を好みのお客様もいるとは思いますが、余りにも変化が大きいので廃棄するしかなかったのでした。

そんな事ですが、漸くマタリキも機械の癖もつかんだだろうし、
慣れて来たのもあると思います。

麺量は250g近いと思います。私のところで230g強ですから、
自ずと、私のところよりはじゃっかんですが長い麺になっているところも最高に良い部分です。

啜り応えもありますし、全て啜れない人は噛んでくれますからね!

最高に良い、私にとってはベストの麺であります。

私のところも開業当時は、普通盛り180g、大盛270gでした(爆)

これも製麺所の業務用の麺が180gと聞いたから決めました。
それでも酒田飽海を中心に食べ歩いた時に、麺の長さからも量が多いのだろうと想像しました。
自家製麺がほとんどのお店ですが、普通盛りの平均は200gくらいであろうと調査しました。

すぐに200gにして、大盛を300gにしました。

私こそが正真正銘の猿であったのです(核掛自爆)
いや、ゴリラ真似か?(爆)

それでも、啜る醍醐味を思うと、少しずつ長くなって行き220g~230gにしたら、
親父が当時、まだ瞳が黒い時代でしたので猛喧嘩になりました。

麺類はもう少し食べたいところが一番旨いと力説します。

まあ、一理あるのは当然でしたが、一番好みは普通(標準)よりも
少し長い麺でした。酒田飽海地区は、私のところよりも番数が二番程大きいところが多かったので、
自ずと細い麺になりますから、200gでも、私のところの200gよりは長い麺であるのです。
そして、親父の意見と逆ですが、折角の自家製麺なのですから、お客さんに腹一杯食べて貰いたいのもありますよね?

読んでいて、何の事かさっぱり分からない人もいると思いますが、
切れ刃の番数についての講釈は割愛します(爆)

当然、250gくらいで出して、一玉ずつ量れば最高ですが、
旅館をしながら、そんなに製麺に時間を掛ける訳にもいかなかったですからね(苦笑)

まあ、中華そば処は私と「おかん」が中心になってすると言う仕事でしたので、
いくら親父が形は社長でも、言う事は絶対に聞かなかったです。

親父に試食させる時は、麺量を巧く調整して茹でて誤魔化していました(爆)

親父は彼の岸に行くまで、様々な施設にお世話になりました。その直前の瞳の色がやや変色して来てからは、
麺量を230g強にし大盛も330g強にした経緯があります(核爆)

「こってり」に関してでも何度喧嘩したか分かりません。

今だから言えますが、極端な話、殴ってやろうかまで腹が立った事もあります。
だって、倒産寸前で命を懸けてやっているのに、否定されたらどうなります?

零細企業でありますから、家族を守るというか生活する為にですよ!

商売するのに、自信を持ってする人も多くいるかもしれませんが、
私は自信よりも不安が大きかったですから!

だから、いくらでもお客様の好みに合わせた物で選択できるようにとしました。

それが、油っこいラーメンは、親父は完全否定でしたからね。

それを好きなお客さんは、「あっさり」よりもそっちが好きなのですから!
それを一ミリも分ってくれないのですから、本当に情けなかったです。
お袋がいくら力説しても親父は頑固で解ってくれませんでしたよorz
自分は赤のシャツが好きだが白のシャツは嫌いだと言っている様なものですよ(核爆)

まあ、今更ジロー話でした(爆)

かなり話がそれましたが、KKです。

立場上、あまり言うべきでもないし、こんなところで書くべき事ではないかもしれませんが、
最高に旨かったです。マジ良い仕事しているなと感心しました。

やはり、マタリキも直王も特別な関係であり、単なる弟子と言う様な次元では当然無いですが、
私のところで修業と言うか手伝ってからの開業で、両店共に佐渡ヶ嶽部屋が好きだった事もあり「琴」を店名に入れています(核爆)

そんな関係のお店に頻繁に行き、ここで絶賛更新したら多くの方は読んでいて感心しないだろうと言う事もありました。

だから両店共に、あえてお邪魔しないでいました。こっそり、厨房で食べたのは載せません、いえ、載せれません。

しかし、今回切れ刃の調子が芳しく無いので来てくれとマタリキに言われたので、
見に行ったついでに嫌々ながらシャッターした訳であります(核爆)

まあ、また何か問題や相談事があれば突入はします。
味見もしますよ。その時は裏口入学です(笑)勿論、金原和内ですよ(爆)
そんな事は余目。正面から営業時間に訪店すれば、金払って外内島な訳です(爆)

そんな事はともかくも、この味は既にマタリキ味に進歩している味で間違いありません。

開店当初とは、良い意味で違った味になっています。

間違い無く、超常連(信者)さんが付いていると思われますし、私のところのプチ常連さんだったお客様がマタリキ店に浮気したまま、
その様になっている方が必ずいる筈だと分析します(爆)

大盛対応も漸くした様です。

今度は相当面倒かもしれませんが、中華そば(小)をしたら良いと思います(核爆)

私のところはできませんし、するつもりも無いですが、
マタリキ店は小盛りをすれば、お年寄りのファンが更に多く付くと思います。

小盛りこそ大した値引き(安売り)せずに、150g~180gの間の麺量で、
500円とか550円売りで上等なのですよ。チャーシューは当然一枚です。

私なら、あの店舗で松浦氏&光ちゃんと言う仕事のできるスタッフがいるのですから、すぐにやりますよ(爆)

券売機のデフォの下に、何か追加メニューを入れるとか入れないとか寝言みたいな事を、
食券を買いながら言うマタリキでしたが、そんな時はなぜか声が小さくなるマタリキなのです(爆)

やるのか?中華そばの小盛りを?(爆)

小学、中学時代のあの元気な馬鹿声はどうしたものか?
学級一、いえ、学校一の大声の持ち主でしたよ!(爆)

そう言えば、小学校4年生の夏休み明け直後の二学期初めに、体育館で6年生の学校当番の「な●き」さんと言う2つ上の大先輩に対して、
恐ろしい剣幕で凄むマタリキがいました(マジ爆)

あの当時の名コンビは「マー」です。正敏君と言う香具師で、逆の敏正君はハローズ社長のkuriです(爆)

その正敏君とのコンビは、「マー&ユー」です。
マタリキのあだ名は、それこそ、敏正君が付けました(笑)

勇市の勇からです。当時のあだ名は「ユー」ですよ。

その「マー&ユー」が、学校当番に凄みます。

何をしたかと言えば、その六年生の学校当番が、何を魔が差したものか、
クライミングロープでターザンの真似をしただけの話なのです(爆)

一瞬だけ学校当番であると言う事を忘れていたものと分析します。

それを観ていたと言うか、見逃さなかった「マー&ユー」が断じて許し難し状態になってしまった訳です。
まあ、聞こえは凄く良いですね。

真面目で正義みたいに感じるかもしれませんが違うのです。

マーもそうですが、マタリキは弱い者虐めは絶対にしませんでした。

ただ、弱そうな者弄りは二人とも得意分野でありましたが…(爆)

そんな事で、2つ上の児童を追い込み、泣かせる事ができたら
大手柄だと思っていた筈です(核爆)

その時代、海辺水産高校や山伏高校では、1つ上は仏様、2つ上は神様と
云われていたのをご存じですか?(爆)

まあ、私の檀家の住職が聞いたら激怒しますけどね(般若寺爆)

まあ、仏様と神様を比較する事自体がナンセンス。

どちらが格上とか偉いなどとは言ってはいけません(苦笑)

そんな事ですが、当時の高校生は神様の方が格上とか偉いと思っていたに違い無いです。

その神様にギャフンと言わせようと、猛烈当たろうしていた二人。

マー&ユーが凄む!「謝れ~!」
「な●き」さんは、「わりっけのぉ~」

普通なら、ここで糸偏に冬なのですよ。

しかし、「マー&ユー」が言った言葉は?

「わりで済めば警察要らねぇ!」と更に追い打ちを掛けるのでありました。

相手は2つ上の神様と云われている6年生「な●き」さん。

逆襲です。「四年坊主がいっきなって!」と居直るのでありました(爆)

ここで「マー&ユー」が、更にマジ切れするのでありました。

いやぁ~、ここにニンニクを入れれば、「マー油」が完成するか?(爆)

マー&ユーは「な●き」さんの胸倉を掴みだします
一進一退の攻防も、相手は神様である六年生であります。

やや劣勢になり、その時私は「マー&ユー」の後ろにいました。
先頭は彼等二人で、私は一列下がった位置で多少びびりながらの応援(爆)

「馬鹿野郎、この野郎」を大きな声で連呼しプレッシャーを掛けていた容です(爆)

やはり、六年生と言う事で、内心やばいなと思っていたのは間違いありません(核掛自爆)

名前が名前だけに、倍返しされたら?(爆)まあ、本人はその時、1歳か2歳であったと思われます(半沢爆)

勿論、私は「マー&ユー」の味方ではありましたし基本は正義の味方(爆)

この争い収めるように、既出の「馬鹿野郎、この野郎」を連呼したのでありました(核爆)

これは完全なる喧嘩になっていました。

喧嘩は相手を泣かせれば、ほとんど終了の時代です。
まあ、例外的に泣き出してからパワーアップする香具師も少数はいましたが、
所詮、泣いてからでは挽回は難しいものがあった様です(爆)

さて、何とか、その六年生を泣かせようと必死であった事だけは
確かです(爆)

正義の味方と言えば、月光仮面です。

インドの山奥でっぱのハゲあたまんじゅう食いたい…???みたいな替え歌もありましたが、忘れました。

インドの山奥でんでんでん六豆うまいまめ~だ~か~の学校は川のなか~ら~す~なぜ鳴くの、
からすの勝手でしょ…は確かに覚えています。

小学校低学年の時には、月光仮面の「お面」を天神祭りで本物の香具師から買った覚えがあります。

さすがに1,2年時でしたので、学校に持って行ったりはしませんでしたが、
帰り道で被ったら下校仮面であったと思います(爆)

っうかこの替え歌はレインボーマンでしたな?(核爆)

似てるちゃ、似ていますね(爆)

それからどったの?

それからどうしたかって、授業開始のチャイムが鳴り、痛恨の引き分けでありました(爆)

願わくば、ここでこの時に5年生の仏様、もとい、神様よりも偉いと云われていた「Y二先輩」
に通り掛かって欲しかったと思うのは私だけでは無い様な気がします(核爆)

Y二先輩ならば、「マー&ユー」&私に対して、「喧嘩すんなは10年はえぞ!」と言ったに違いありません(爆)

そうすれば、私は14歳の時の集団リンチに遭わずに済んだかもしれないのです。

ここで以前に少し触れた事があったと思いますが、中2の時に、
同級生の保君と言う友達とルールの無いボクシングをしました。

保君は野球部でしたが、グローブもせずに素手でした(爆)
私も素手です。

短い休み時間の出来事でしたので、どちらもノックダウンはしませんでしたが、
当たり所の違いで、保君の顔や鼻から血が出てしまいました。

教室に戻る時に、三年生の野球部の先輩が見つけてしまうのです(大汗;)

保君は根性もあり、弱音や泣き言を言う香具師ではありません。

峰栄時代は名捕手で名を轟かせておりました。

彼の岸に既に辿り着いてしまいましたが、たもちゃんも峰栄時代は
左の本格派で頑張っていた時があります。

その「たもちゃん」が、よく想い出話で、「たもがキャッチャーだと投げやすかった」と言っています。

何か一部の人しか訳が分からなくなっていると思うので整理します。

捕手の保君のあだ名は「たも」です。たもちゃんの名前は「啓一君」です。

たもちゃんと
あだ名が付くほとんどの人は「保さん」と言う名前の人だと思います。

しかし「啓一君」で、たもちゃんとは?

これは、啓一君の苗字が「松田姓」でありまして、峰栄時代のあだ名が「たまつ」です。
単に松田を逆さに呼称しただけの話なのです。

しかし、中学二年の夏休み明けからは「たもちゃん」にあだ名が替わってしまったのです。

このあだ名は、三中の一つ後輩等が付けたあだ名です。

中二の夏休みに、ヤリマン、もとい、大昔存在していた「ヤマリン」の最上階のゲーセンで、
自ずと友達等が「たまつ」呼称していました。

それを聞いていた、一つ下の三中連中が、呼び捨てにはできないと
「たまつちゃん」と呼ぶようになったのです。

そうです。「たまつちゃん」が訛って「たもちゃん」になったと言う訳です。

誰だったかな?

稲泉君と言う奴で、あだ名が「ペチカ」って言ったかな?
あとは、太田君であだ名が「ペロ」。このペロの兄貴が私のインベーダーゲームの師匠なのです。

おっと、誰もそこまでは聞いていませんよね?(爆)

そんな事ですが、保君と「たもちゃん」のバッテリーは凄かったのですよ!
同じく、峰栄では金野君と言う右の本格派の投手もいました。

コントロールは金野君、球威は「たもちゃん」だったと記憶しています。

そう言えば、この金野君のあだ名が「ゴギ」だった筈です。

峰栄からのあだ名だったのか?或いは中学に入ってからのあだ名だったのか?
さすがに私も違う学校、そして、中学時代は別のクラスでしたので分かりません。

それでも、噂によれば、ゴキブリが短縮されて訛った容ではないかと言う奴もいるのでした(核爆)
それにしても酷いあだ名です。

それこそ、保君は双子の兄弟でも知られています。

6組の卓球部に所属していた「忠君」のあだ名は、峰栄時代は「ただ」でしたが、
中学2年生の時に付いたあだ名が「サボ」です。

さぼり癖があるとか云々ではなく、サボテンの短縮形だと云われています。

恐らくは、熊谷君が付けたあだ名だと思われますよ(笑)

二人はとても仲が良かった。だから、辺りからみれば酷いあだ名と思われるかもしれないですが、
気にせず楽しく学校生活して来られたのでありましょう。

しかし、私の知っているあだ名で最悪な香具師がいるのです。

それこそ、3中の野球部であの時代の同年では、ミートする技術は
城下町随一と言われていた「光男君」と言う香具師がいました。

このあだ名は、マジやばいです。まあ、他地域では訳が分からないと思いますが、
庄内では考えられないあだ名です。

それでも平気で呼んでいましたし、本人は全く気にする事はありませんでした(爆)
この光男君もヤマリンで知り合い、高校の三年間は一緒でした。

琉球王国では「宝味」と言う方言と同じ意味の庄内呼称です(爆)
女子生徒の前でも呼んでいたのですから驚きです(大汗;)

それこそ、3中は野球が強かったです。

我が1中だって、既出の金野君―保君のバッテリー、
そこに陽光小の梅津君と正浩君のバッテリーも進学して来たのですよ!

更には致道小からは、今野君と言う投手(鶴の徽章中ではエース)も進学して来ていたのに…。

ではなぜ3中に勝てなかったか?恐らくは充電不足だったものか?(爆)

そんな事はともかくも、話をルールの無いボクシングに戻しましょう(爆)

保君は、その先輩に、ちくった訳でも無いのですが、先輩はしつこく聞いたらしいのです。

まあ、普通に「喧嘩した」そして「誰と?」となり、私が野球部の先輩等に、
昼休みに呼び出しをくらいます(大泣;)

あの時、Y二先輩が見つけてくれて「嘩すんなは10年はえぞ!」と言ってくれれば、
私は保君と喧嘩はしませんでしたよ!(爆)

Y二先輩は、私にとって?いえ、我々年代にとっては絶対でしたからね!

そんな事で、それこそ一番行きたくない3年4組前の廊下です(大汗;)

そうです。4組はY二先輩がいる教室なのですgakuburu

野球部の先輩等&他の香具師等に、殴り倒された挙句、
蹴りの連続でありましたorz

始めは痛恨の一撃をくらいましたが、倒れてからは「アストロン」を唱えます(爆)

その効果もわずか5分程度でありました。

給食で喰ったコロッケも吐きそうになりましたが、もしメンチカツだったら、
吐き出してしまい、集団メンチ事件になるかもしれなかったですね(爆)

蹴り続けられて、マジ限界か?爆弾岩にもなれず、ルーラなど取得している筈もありません(爆)
キメラの翼は備えていましたが、蹴りが激しくて使えずにいました(核掛自爆)

どんどん体力が無くなり、意識がもうろうになる寸前「Y二先輩」が通り掛かります。

Y二先輩は、その野球部等の同級生(先輩)に対して「なしたなや?」

野球部の先輩は、「俺の後輩どご殴って怪我させだなや!」と伝えるのでした。(大汗;)

喧嘩になった旨を説明している途中で「喧嘩すんなは10年はえぞ!」と
言うY二先輩。

マジで24歳までは喧嘩はできないと思って聞いていました(爆)

それこそあの時(10歳時)言ってくれたら、20歳までは喧嘩できない訳ですから、
袋叩きに遭わずに済んだのですよ(核爆)

Y二先輩の「てぇげしておげや」で私は命を救われたのでした。
これが命の恩人一回目です。

二回目は高校時代ですが、、、、

おっ!?これは、脱線からの更なる脱線か!?(核爆)

話を戻しましょう!

「マー&ユー」は、やられたらやり返すのでありました。これは仕方の無い事です。

これが本当の「生徒防衛」と言うのです(爆)

マー&ユーは、弄りは得意でしたし、何と言ってもあだ名付けの天才でもありました。
そんなユー(マタリキ)に私があだ名を付けています。
四年生になった新学期の事です。

同じクラスになり、とにかく落ち着きの無い、ちゃかちゃかした背の小さい色黒の奴がいるなと思ったからです。

『チビクロサンボ』です(笑)
この虎とチビクロ散歩(爆)

それでもそのあだ名は浸透する事はありませんでした。

ユー(マタリキ)は、城北小時代は、かなり凶暴で多くに恐れられていました(爆)

多分、「何だこの野郎」呼称は学校新記録を更新している筈です(核爆)
2位が戸田君かな?(爆)私は3位or4位くらいです(爆)

ユー(マタリキ)に「チビクロサンボ」などとは恐くて、ほとんどの児童が言えなかったから浸透しなかった一番の理由でしょう。

そして、ユー(マタリキ)は、私にあだ名を付けています。

四年生の一学期だった筈です。国語時間に漢字練習をしていた時に、
消しゴムを齧って、前方の席の友達に投げ付けてさぼっていました。

ユー(マタリキ)は、廊下側の一番前の席に座っていましたが、授業中の半分以上は後を向いて授業を受けていました(爆)

私の悪事を見ていて、「かけがみ、ちゃんと書げ~!」と言いたかったと思うのですが、噛んでしまい、
「かっけがみ、ちゃんと書げ~」と聞こえました。

ユー(マタリキ)は、その後も「かっけがみ」呼称する様になり、
「カッケ」に短縮されて行った訳です。

国語の時間は、いつも「カッケ、書げ~」と親父ギャグを言う様になりました。

その後、私は一瞬の間、「かっけ書げ君」と言うあだ名が付きましたが、
皆、呼称が面倒だったらしく「カッケ」になったのでありました。

もし、私がその時「脚気」と言う病名を知っていたら、ユー(マタリキ)を
ぶん殴っていたでしょう(爆)

ユー(マタリキ)だって、脚気が病気名だと分かっていれば、「カッケ」とは
呼ばなかったと思います。

二人とも何も分からぬ児童だったので、仲良くやってこれたのだと分析します(爆)

ユー(マタリキ)家にペッチでタイマンを張りに出掛けた事もあります。

自分で書くのもあれですが、城北小学校時代は、私が東の横綱であった筈です(自負爆)西の横綱が城北競馬場君。
ユー(マタリキ)は東の大関、西の大関がカマキリ君で間違いの無いところでしょう。

まあ、皆、実力は遠山の僅差で、ユー(マタリキ)&カマキリ君は、張出横綱レベルであったでしょう。

寂れた楕円形の低いちゃぶ台が一台ありました(爆)

自宅のテーブル、或いは、学校の給食台では無敵ではありましたが、
ユー(マタリキ)のちゃぶ台に慣れるまで苦戦しました。

普通、遠征となると、ペッチは5枚~10枚(小~中)を持参すれば上等です。
台風などは、持参せず全て相手の物をお持ち帰りです(爆)

城北競馬場君などは、牛乳の蓋程のミニペッチを一枚持参して、鴨葱の家に遠征に出掛けるものでした(核爆)

しかし、相手は強敵ユー(マタリキ)。

過去最高の50枚程をチャリンコのカゴに入れて突入しました。

ジャンケンで負けて、ユー(マタリキ)先行、49枚連続取られました。

最後の一枚などと書けば、余りにも作り話に近い感じになりますか?(爆)

マジで、残り数枚、4枚くらいだった記憶していますが、
マジでお仕舞いと諦め掛けました(爆)

マジ、そこまで焦った事はありません。しかし、ユー(マタリキ)痛恨のミスで私の番になり、
連続で全て取り返しました。

まあ、途中でお母上から、「暗くなって来たから友達帰せよ!」と言われていましたが、
取り返すまでは止められません(爆)

賭けペッチ(メンコ)も懐かしい思い出です。

そんな事で、チビクロサンボのあだ名を付けた理由はユー(マタリキ)は背が低く、肌が結構黒かったのです(笑)

いやぁ~、マジの悪ガキでしたよ(爆)

小学校を卒業するまでは、悪ガキ以外のなにものでもありませんでした(核爆)

今だから言えますかね?(爆)

やっぱり、桂小金治さんにしておきます(爆)私やkuriもした事が無い悪さです(内緒爆)

これまで何度も「桂小金治」呼称して来ましたが、下の画像で初めて理解した方もいると思います。

たまに遇う人に、ブログの「桂小金治ってどう言う意味?」と聞かれる事も
ありますので、一応、そう言う意味であります(笑)


30年程前に越後のスナックで一緒になった事があります。

私はカウンターで、一番安いVSOP(ブス俺パス)と言うブランデーを
呑んでいましたが、桂さんは奥のビップルームにいました。

レミーとかヘネシーを呑んでいたものと分析します。

お手洗いに立った時に、一度お声掛けさせて頂きましたが、
気さくな人柄な方でした。古町にある●●と言うスナックですが、それは秘密にしておきます(笑)

それから、ユー(マタリキ)は中学に入ると、落ち着いた素晴らしい
生徒になりつつありました。

サッカー部で部活動でも非常に頑張っていました。

練習中にラムネを呑んで、ぶん殴られる事もありませんでしたし、途中、前代未聞の事件を起こし、
他の部活に一旦移る事もありませんでしたし、練習を常にさぼって、ゲーセンに走る事など一度もしませんでした(核爆)

主将の重とは対照的でした。だから、競馬場の馬場状態では無いと言っているでしょう?(爆)
重はシゲです。重則君と言って、今は大百姓の親方で、
ユー(マタリキ)も私も米を購入しています。

非常に良い米で、激安価格です。価格は桂小金治です(爆)

重(シゲ)は主将らしく、「カッケ、今日、練習さ来いよ!」と毎日の様に
うるさく、しつこく言うものでした。

ユー(マタリキ)は、「インベーダー、記録出して来いよ!」と
副主将らしからぬ事を言うものでした(爆)

重(シゲ)は私を必要と考えていたでしょうが、ユー(マタリキ)は私などいなくても全く支障ないと思っていたからに違い無いです(爆)

中体連、県大会をかけた準決勝の加茂中戦ですが、長くなるので
止めておきますが、PK線で糸偏に冬になってしまいました。

既出ですが、三年時の体育祭では、白組の組頭を務めています。
満場一致で組頭になったユー(マタリキ)に対して、応援団長に立候補するも遠山の僅差で落ちる小生(掛自爆)

ここで応援団になって応援を頑張るのが普通の生徒なのでしょうが、
超ふて腐れるのでありましたが、桂小金治です(爆)

まあ、見事優勝して、優勝組頭になったユー(マタリキ)でした。

そんな話はともかくも、ユー(マタリキ)は、馬場こういちさんで、高校に進学してもサッカーを続けます。
この時も全国大会まで、あと一歩まで迫ったらしいですが、夢を叶える事はできなかったらしいです。

トヨタ関連の会社に入社するも、馬場こういちさんを思い出し、
サッカーがしたくなったのです。

今度は指導者としてです。

指導者になる為には、やはり、土日休みの仕事で無いと大変です。

サッカーを教える為に、週休二日の公務員に転職したのです(爆)

そんな事で現在に至っている訳ですが、多少脱線はしてしまいましたが、
あの券売機のメインメニューの下に何が入るのかが注目されます。

秋田の羽後町でラーメン食べている様では、いつになっても判りませんよ(徒然人爆)

とにかく、今後のメニューに期待が掛かります。

私に試食させてくれるものだろか?

冷たい中華そばも一滴も味見させてくれなかったからなぁ~(核爆)